ポルシェの歴史
その歴史の一部ではありますがこちらでご紹介します。
ポルシェはフォルクスワーゲン・タイプ1を設計したフェルディナント・ポルシェ氏の息子、フェリー・ポルシェ氏によってデザイン事務所として設立された。そのため、ポルシェとフォルクスワーゲンには設立当初から深い関係がある。この時フェルディナンドは一般的な乗用車のみならずエレファント重駆逐戦車のような戦車のデザイン等も行った。
その後も設計・エンジニアリングの仕事も続けており、メルセデス・ベンツ・500Eの設計と生産、メルセデスベンツ・C11の最終セッティング、ボルボ・960やアウディ・RS2アバントのエンジンチューンなどが知られている。
またアポロ計画時、使用した月面車(月面上を走行するために造られた自動車のこと)は設計料5000万ドルでポルシェが設計した。
凸凹が多く砂地でタイヤがめり込みやすい月面であるが、最高速度は16km/hを記録。アポロ17号での走行距離は36kmに及んだ。
1963年にフランクフルトモーターショーでプロトタイプが発表され、瞬く間に人々の心を掴みました。翌年の1964年に911に名称を変更し、市場に参入した。
それまで製造されていた356に代わるモデルとして開発されたのが911である。当初は開発コードの901をそのまま車名にしていたが、真ん中がゼロの三桁の数字を商標登録していたプジョーからの抗議によって911を名乗るようになった。水平対向エンジンをリアに搭載したGTというコンセプトは、356からそのまま受け継いでいる。しかし、フォルクスワーゲンを下敷きにしていた356とは違い、911はまったくの白紙から新設計されたモデルである。
最も大きな進化は、OHV 4気筒からSOHC 6気筒となったエンジンだろう。2リッターで130psというパワーは現在の基準からすれば驚くほどの数値ではないが、軽いボディーと優れたトラクションを利して最高速度210km/hを実現していた。当初から排気量アップを前提とした設計で、その後3.6リッターまで拡大されることになる。
破格の高性能が世界を驚かせたが、半世紀を経ても同じモデルが頂点に君臨していることがとてつもない偉業だ。
1971年、ポルシェ一族はそれまでの同族経営から身を引いた。しかし、依然として同社の大株主である。
このときポルシェの技術者だったポルシェ博士の孫(娘ルイーザの子)フェルディナント・ピエヒ(後にフォルクスワーゲングループ会長)、同じく孫(フェリーの子)でデザイナーだったブッツィ・ポルシェ(後にポルシェデザイン社長)も会社を去っている。
創業者のフェリー・ポルシェ氏の息子であるフェルディナンド・アレキサンダー・ポルシェ氏は同族経営ではなくなったことにより、自分のデザイン会社「ポルシェデザイン」を設立。メガネや時計のデザインなどを専門にしている。
現在CEOはミヒャエル・マハトからマティアス・ミューラーへ交代。持ち株会社のポルシェオートモービルホールディングSEの監査役会会長にヴォルフガング・ポルシェ。
積極的にモータースポーツ活動に取り組むポルシェは当然ながらこれまで多くのサーキットで「覇者」として盛名を馳せてきた。代表的とも言えるのがル・マン24時間耐久レース。1970年から1980年の黄金期には居並ぶライバルを押さえてドライバーたちを幾度となく表彰台へと送った。
「カレラ」や「パナメーラ」(1950年代にメキシコで行われた、カレラ・パナメリカーナ・メヒコに由来)などレースに因んだ名称がクルマに使われているのも納得だ。そして2013年には同レースで100勝を達成。その勝利の半数は911によるものだった。またポルシェはル・マンだけでなくドイツツーリングカー選手権(DTM)の常連としても、数多くの偉業を達成している。
スポーツカーを代表するブランドとなったポルシェもずっと順風満帆な経営状態だったわけではない。1990年代前半には、ポルシェにとって最大のマーケットだった北米での販売不振から業績が悪化し、経営難に陥った。一発逆転を狙って投入したポルシェ 968もヒットせず、大ピンチに陥った。
それを救ったのがメルセデス ベンツとアウディだ。メルセデスはEクラスの高性能セダン「500E」の開発と生産をポルシェに委託、アウディも「RS4」の開発と生産をポルシェに委託した。
1996年には、ボクスターの市販を開始。水冷の水平対向6気筒エンジンをミッドシップするオープンカーは全世界でヒットを飛ばし、財務改善を実現したポルシェにとってはさらなる追い風となった。
ボクスターと水冷フラット6を搭載した「911」のヒットを足がかりに、ポルシェはさらに次の一手に出た。それが2002年に誕生した、ポルシェ初のクロスオーバーSUVであり5ドアボディを採用する「カイエン」である。「カイエン」はフォルクスワーゲン グループの「トゥアレグ」やアウディの「Q7」とプラットホームを共通化したモデルで、北米を主戦場に全世界でヒットを飛ばした。
これはポルシェが長年にわたってこだわってきたスポーツカーメーカーからの脱却を意味していたが、ポルシェのスポーツカーメーカーとしてのDNAを「カイエン」は忘れることなくSUVのスタイルに投影。既存のSUVでは味わえないスポーティな性能が世界中で認められるのと同時に、SUVの在り方に大きな影響力も与えたエポックメイキングなモデルとして歴史に名を残す存在となった。
2005年、歴史的に関係の深い大手自動車会社フォルクスワーゲンの株式の20%を取得。2008年11月時点で持ち株比率は約43%となり、事実上同社を傘下に収めた。その後も、金融機関から必要に応じて株式を追加取得できる権利も含め、約75%まで買い増す方針であったが、資金繰りに行き詰まり、逆にフォルクスワーゲンがポルシェを買収するかたちで2011年半ばをメドに経営統合することが一旦決まった。
しかし、ポルシェのフォルクスワーゲン株式取得をめぐる訴訟問題の解決が長引いたため、経営統合に遅れが生じた。2012年8月1日にフォルクスワーゲンが全てのポルシェ株式を取得し、ポルシェはフォルクスワーゲンの完全子会社となった。